アンゴル=モアでSTABO索具

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2007.10.02

+ 調別に米軍将校って同居してたの?

手嶋龍一・佐藤優の4344980115を読んでいて、疑問、というか、よく知らないのとうろ覚えのところがあって、引っかかったところがあった。

手嶋 そのとき、撃墜を示すソ連側の交信を稚内で傍受したのは、調別、つまり調査第二課二部別室と呼ばれる陸上自衛隊の電波傍受機関でした。

佐藤 かつて調査部第二課別室(調別)と呼ばれていたところです。

手嶋 このチームが、「領空を侵犯した大韓航空機を撃つ」というソ連軍機の生々しい交信を傍受し、テープに録音した。決定的な証拠です。(中略)そもそも日本の最高度のインテリジェンスだ。いくら同盟国とはいえ、なぜアメリカに交信テープが渡っているのか、と。

佐藤 かつての調別の施設はもともと米軍のものを引き継いだので、そこにはアメリカの将校も同居していたんです。

手嶋 つまり稚内にあった「調別」の電波傍受機関は、アメリカ軍の下請けと化していたのです。取った情報の全てがアメリカ側に自動的に流れるシステムができていた。これは主権国家にあるまじきことです。後藤田官房長官の怒りは当然です。日本が得た情報をアメリカがさも自前の情報のようにして利用するとは何事か、というわけです。

そこで後藤田さんはリカバリーショットを打った。(後略)

[『インテリジェンス 武器なき戦争』P116-118より引用]

引用部分は大韓航空機撃墜事件における日本の対応、つまり大韓航空機撃墜事件で当時の官房長官後藤田正晴が取った対応は、機密情報の取り扱いのまずさを隠蔽するものだとの批判している章である。文中では明記されていないが、おそらく柳田邦男4062009471を念頭においているのだろう。自衛隊が傍受していた情報を基に後藤田がソ連を追い詰めたと賞賛する声に対する疑問を語っている。引っかかったのは主旨からは離れた部分、佐藤の言う「将校が同居していた」のところである。

まず賞賛される側、当事者の一人である後藤田正晴の事件に対する言及を見てみる。後藤田は著作、関連書籍が多い。事件後しばらくは、見るかぎり、事件に対する政府対応、処理はうまくいったとしか語っていない。ただ、1989年11月発行の4062047276で何か問題があったことを示唆している。

それから、この事件では情報の伝達をめぐって問題があり、今後の情報管理と伝達経路を改善するよう指示したが、そのことについては具体的に明かす時期ではまだないだろう。また、後に国防会議を安全保障会議に改組し、内閣官房に安全保障室を設けるなど機構改革したのは、こうした緊急事態の際、それまでの内閣官房の体制では十分な対応ができないと反省してのことであった。

[『内閣官房長官』より引用]

保阪正康も4167494043で触れている。引用は文庫版。

ただ、当時の防衛庁詰め記者の証言によると、日本側の傍受記録は官邸の許可なくアメリカ側にわたされた形跡があり、これに対し、後藤田は防衛庁の杜撰な情報管理を叱りつけたという。

[『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』より引用]

ここで何があったのかは、1998年に発行された4881312227で、事件当時の防衛事務次官夏目晴雄とともに後藤田が明らかにしていた。

午後一一時四五分、アメリカの発表は慎重を期していた後藤田にとってショッキングな内容だった。シュルツ国務長官が日本の持っていた最高機密情報の一部を公表してしまったのである。なぜ、日本の最高機密情報がアメリカに流れてしまったのか。そこには日米情報機関の特別な関係があった。

ソ連軍による撃墜前後の交信は稚内の航空自衛隊に配置されている通称「調別」といわれる機関で傍受録音されていた。撃墜の模様を傍受した交信記録のテープはすぐに防衛庁に送られ解析された。その国家機密情報は内閣調査室に伝えられ後藤田に報告された。

日本だけがこの情報を握っていたならば、後藤田の米ソへの対応はもっと違うものになっていただろう。しかし、日本の最高機密情報はアメリカにわたっていた。アメリカはどのようにして自衛隊の交信記録を入手したのか。

当時のCIA幹部は、あの情報はNSA国家安全保障局から入ったものだと言う。NSAはアメリカ政府に所属する機関で世界中からおもに軍事的な秘密情報を通信信号や電波の傍受という形で集めている組織である。

NSAは日本が傍受した交信記録を入手していた。稚内の自衛隊が傍受した交信記録は米軍の三沢基地を経て自動的にアメリカにわたるシステムになっていたのである。

「日本の傍受したものも米軍三沢基地に入ってたわけですね。みんな入るんです。そのシステムが問題であったわけです。後で考えると。ただし、そのころは、そういうことが問題になるという認識がなかった。なぜそういうことがなかったのか。ご承知のように、日本の防衛のいちばん大事な点というのは、アメリカが日本占領中、朝鮮動乱あるいは平和条約が発効し引き揚げていったその過程で、アメリカが核として残したものを日本がそのまま引き継ぎ、それが基本になっていることです。そのいきさつからアメリカに情報が行くことというのは当然みたいに思っていたんですね」(夏目)

後藤田はこのことで夏目を厳しく叱責したという。

「こんなものが生でストレートにいっちゃうとは思わなかった。どっかにクッションがあっていくんだろうと思っていたんです。それがなかった。ある意味では情報管理がまだ確立されていなかったことは否めない。私が後藤田さんに叱られたのはそのことだったと思いますね」(夏目)

この事件ではまた、アメリカの諜報活動も発覚した。暗号名「プロジェクト・クレフ」。NSAが稚内の自衛隊基地に極秘に送り込んだ通信情報部隊である。彼らもまたソ連の戦闘機が大韓機を撃墜した一部始終をモニターしていた。この重大な交信記録の情報はすぐにNSA本部に送られ、直ちに最高機関に配られた。アメリカはこうして二つの交信記録を握ったのである。

「プロジェクト・クレフの存在は知っていましたよ。存在そのものは事件が起こる前から知っていた」(夏目)

しかし、政府首脳にはその存在を報告していなかった。

「防衛庁でも、ごくひとにぎりの人しか知らなかった。知らせないようにしてたんです、事実。大臣も次官も知らないでおられた方がいっぱいいると思いますね」(夏目)

アメリカが傍受したもう一つの交信記録。後藤田はこれを知らなかった。事件から六日後、アメリカのカーク・パトリック国連大使は安全保障理事会でアメリカがつかんだ情報を明かさず、日本が傍受した交信記録のテープを五〇分にわたり流したのである。アメリカ側関係者によれば、日本が傍受したテープを公開すれば日本は困った立場になることを十分認識したうえで、あえて公開に踏み切ったのだという。

[『法の男 後藤田正晴』より引用]

その後、4062810298でも後藤田は語っている。以下の引用は2005年発行の文庫版。

実は、防衛庁の情報が日本政府より先にアメリカの方に行っていたんだ。だから、自分の政府より外国政府に情報を流すような防衛庁は要らんよと言った。情報のルートが駄目なんだ。東京に来るより先に向こうに行っているんだ。逆なんですよ。それでもまだ防衛庁の人間は、発表はどうだこうだと言うから、許さんと僕は言ったんですよ。今は直っていますがね。なぜそうなっていたかというと、無理もないところもある。米軍の施設が返還されているんですよ。だから、その時の人間、向こうの人間がそこにおるわけです。そんな関係で無理もないところもあったんです。

[『情と理 カミソリ後藤田回顧録 下』より引用]

『法の男』を受けて、参議院で瀬谷英行が質問主意書を出している。主意書にある田中賀朗4380972690は大韓航空機事件の真相を究明する会が関与した本で、大韓航空機は意図的に領空侵犯したというアメリカ陰謀説に属するものである。瀬谷は田英夫とともに究明する会に関わっている。

二、いわゆる「プロジェクト・クレフ」に関する問題について

(中略)

1 大韓航空〇〇七便が撃墜されたとされる、昭和五八年九月一日午前三時三八分(日本時間)頃、自衛隊稚内基地内にいた米国側要員は合計何名であったかを明らかにされたい。

(後略)

[大韓航空機事件の真相究明の過程で明らかになった諸問題に関する質問主意書より引用]

政府答弁は次の通り。

二の1について

御指摘の自衛隊稚内基地(航空自衛隊稚内分屯基地)は、当時、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(昭和三十五年条約第七号)に基づいて、その一部が合衆国軍隊に対し提供されていたところである。御指摘の日時において同基地内に所在した米国側要員の数については、当時の合衆国軍隊の運用に係る事柄であり、我が国として承知していない。

[参議院議員瀬谷英行君提出大韓航空機事件の真相究明の過程で明らかになった諸問題に関する質問に対する答弁書より引用]

稚内にプロジェクトCLEFという通信情報部隊が駐留していることを明らかにしたのは、セイモア・M・ハーシュ416341150Xである。プロジェクト・クレフについての記述は多いのですべては引用できないのだが次の部分を。

暗号名で「プロジェクトCLEF」と呼ばれたこの通信情報部隊は、三沢の「ヒル」に駐留する空軍の電子保安司令部、海軍保安群(NSG)、陸軍情報保安司令部(AISC)の三つの軍事情報機関の司令官たちによって数年間検討された後、一九八二年に実験的に活動を開始した。三十人から成る「プロジェクトCLEF」はきわめて特別の使命を持っていた。それはソ連軍参謀本部とソ連防空軍とが交信に使う周波数を極秘にモニターし、情報収集基地の増設が必要かどうかを決めることにあった。

[『目標は撃墜された 大韓航空機事件の真実』より引用]

鍵がかけられ、かたく閉ざされたドアの内側で任務を遂行する「プロジェクトCLEF」では状況がまったくちがっていた。深夜当直体制の下でわずか五人の監視員が傍受任務に就いていたが、そのうちの一人がことのすべてを聞いていた。(中略)ところが、突然迎撃中のスホーイSU15戦闘機のパイロットが「ザプスカール」と叫んだのが耳に入った。「ザプスカール」とは、ミサイル発射を意味するロシア語の過去形だ。監視員はびっくりして「椅子から飛び上がった」という。

[『目標は撃墜された 大韓航空機事件の真実』より引用]

このような描写に対して、当時NHK記者として稚内基地の取材経験もある小山巖は、アメリカ国家安全保障局NSAの要員が人目につかず稚内に存在することは難しいと、4062033488で否定している。長くなるが引用する。

私が知る限り、事件当時、「プロジェクトCLEF」が稚内に駐留していた事実はない。

ジャーナリズム王国アメリカにあってすら、接触が困難なNSAの内幕をのぞき見たとするハーシュ記者の仕事を検証することは、日本のそれも片田舎の記者にとっては不可能なことである。だが、事件当時、稚内で取材していた私としては、NSA要員の稚内駐留に関して次のような理由をもって疑問を提起したい。

ハーシュ・リポートの記述が事実とするならば、三十人のNSA要員は一体いかなる方法で、人々の目をさけて稚内駐留が可能になったのであろうか。自衛隊稚内分屯地内の施設にこもり外部との接触をさけたか、あるいは基地の外に極秘裏に特別の宿舎を確保するかのいずれかである。

まず、自衛隊の基地内にこもるケース。

基地内には、かつて米軍人専用の宿舎が数多く残されていた。だが、基地の全面返還に伴い、米軍用宿舎はすべて取り壊されている。一方、現在の基地内には自衛隊の独身隊員専用の隊舎が何棟かあり、空部屋がある。三十人ものNSA要員が基地内に身をひそめるとすれば、これらの空部屋をつかって自衛隊員と同居することになるだろう。

だが、NSA要員の存在が隊員の口を通じて街の人々の耳に達しないという保障はどこにもない。

隊員の多くは、基地外に住んでいる。地元稚内の女性と結婚している隊員も少なくない。また地域にあっては、PTAや町内会といった地域活動に積極的に加わっているのも自衛隊員とその家族である。地域との交流の度合いが深ければ深いほど、隊内の出来事は身近なところから基地外に漏れ出てしまう。

(中略)

市街の中心人口四万人ほどの小さな街では、だれもが顔を見知っている。話題に乏しく虚実の噂は風にのって、またたくまに街の中を駆けめぐる。稚内は日本人ですら、よそ者はすぐ目につく狭い街なのである。

米軍が稚内に再び駐留するとなると、日本は日米安保条約に基づいて宿舎の確保などを行なうことになる。だが、この件に関して窓口の札幌防衛施設局稚内出張所が、米軍人のために動いた痕跡はない。

なによりも当の自衛隊は、ハーシュ・リポートが指摘する"NSA要員稚内駐留"を全面否定している。

自衛隊の全面否定を待つまでもなく、三十人もの米軍NSA要員がひそやかに稚内に駐留することなどは、とうてい不可能なことであった。

いまひとつ重要な点は、調別稚内分遣班と三沢NSAの関係である。

かつて稚内に駐留していた米軍NSA要員は、稚内を去る際に通信傍受施設を日本側に移管した。だがそれは、アメリカ側が稚内での通信傍受を放棄したことを意味してはいない。ソビエトのコミント情報傍受業務を日本側に引き継いだのであって、そこで得られた情報は、同時に三沢でも入手できる通信機構を残して稚内を去ったものだった。いわば三沢のNSAは、日常的な日米の協力関係の一環として、稚内で傍受されるソビエト情報をいながらにして聴くことができたから稚内に常駐する必要はなかったのである。

稚内で傍受されたソビエト戦闘機パイロットの交信記録は、そっくり三沢でも聴取され、同時に録音されていた。事件のあと日本政府がアメリカ政府に引き渡したとされる交信記録テープは、このようにして三沢のNSAが入手していた可能性が強い。

そのいきさつを日米両政府がいまだに公表していないのは、ひそやかに稚内と三沢間に存在する日常的な諜報の舞台裏を明らかにしたくなかったためであろう。

米軍のNSA要員は稚内から撤退したあとも、時折、自衛隊分屯地に姿をあらわしていた。それは年に一〜二回程度で、米軍三沢基地から派遣されていた。三人から四人のことが多く、一回の滞在は二週間ぐらいである。稚内駅前のホテルに宿泊し、自衛隊の基地には毎朝、車で入った。

たまにやってくるアメリカ人は、人々の目を引いた。

駐屯地司令は、「自分たちも詳しい内容を知りえないが、彼らの目的は通信機器の整備と保守・点検だろう」と推測していた。日米間の地位協定に基づく行動と解釈された。

米軍人は皆私服であった。ホテルと自衛隊分屯地を往復するだけである。常にそろって行動し、ホテルのレストランで食事をとる。

話しかけると明らかに迷惑そうであった。あやしい日本語が返ってきた。稚内にはもう何度もきているが、印象のよくない寒い街だという。決して身分を明らかにすることはなかった。

撃墜事件の当日、三沢の米軍NSA要員が基地内にいた事実はない。

米軍が稚内に入ったのは事件発生三日後、九月三日のことで、稚内空港で目撃された。

だが、彼らは三沢から飛来した米軍機から降り立ったのではなかった。意外なことに、航空自衛隊千歳基地の大型救難ヘリコプターから軍服姿で降りてきた。

五〜六人で、軍服には「六九二〇」と部隊名が読みとれた。三沢米空軍第六九二〇電子保安大隊所属のNSA要員である。リーダーは軍曹の階級章をつけていた。一行は航空自衛隊のマイクロバスに乗りこみ、稚内分屯地に向かった。

事件後の一九八四年以降、稚内にやってくる米軍人は、際立って目立つようになった。それは、日米両国が交信記録を公表したことによって、ソビエト側が周波数を変え、通信傍受が困難になったことを示している。

傍受活動の存在を明らかにした代償は大きかった。日米の要員は、再び新たな周波数の探索作業にとりかかることになった。

以上がハーシュ・リポート、CLEF要員稚内駐在の事実はなかったと考える根拠である。

[『消えた遺体 大韓航空機事件の1000日』より引用]

柳田邦男も稚内にNSA要員がいた事実を確認できなかった旨を406184976Xで少しだけ書いている。

<追記> レーガン政権下のNSAの内幕については、「ハーシュ・レポート」が詳しく報じている。とくに重要なのは、NSAが日本政府首脳には何ら通知をしないで、日本の「調別」担当幹部との協議だけで、稚内に民間人を装った三十人から成る特別の電子情報部隊(暗号名「プロジェクトCLEF」)を一九八二年から配置していたという記述である。

そのような極秘の電子情報部隊が本当に稚内に駐留していたのかどうかについて、筆者は確認することができなかったが、「ハーシュ・レポート」は驚くほど微細に、「プロジェクトCLEF」の創設の経緯や大韓航空機事件当日の活動の実体を描いている。

[『撃墜 上』より引用]

また、先の4380972690でもこのことは触れられている。

その後、米第六九八六電子保安群は、一九七二年六月に通信傍受業務を自衛隊に全面的に委譲し、主力は三沢基地に移った。しかし、米軍には、日米地位協定により、稚内の自衛隊基地内に若干の施設を保有し、その維持管理と独自の通信傍受業務実施のために、年間四五日以内、一度に数名の隊員が駐在する権利が認められた。

このときも、数名の電子保安群所属の米兵がいた。あえて断定はしないが、ソ連防空軍のレーダー・データと007便迎撃ボイスの傍受(前述の交信妨害もか?)を行っていたと見られる。

[『大韓航空007便事件の真相』より引用]

まとめると、ハーシュはNSA要員三十人が駐在していたといい、政権中枢にいて、当事者でもあった後藤田や夏目は詳細はともかく存在を認め、稚内を取材した小山や柳田は否定あるいは確認できず、アメリカ陰謀説の立場に立つ田中はそのときは米兵がいたとする。佐藤優の発言は常駐か一時滞在かでいうとやや常駐寄りで存在を認めるもので、結局どうなんだろうというとどうなのだろうか。

実は、大韓航空機撃墜事件のくだりは、手嶋が主導する形で進んでいるので、相槌を打っているだけとも取れる佐藤の発言より、手嶋龍一の発言の方が面白い。『インテリジェンス 武器なき戦争』の基になったと思われる対談が行われていて、手嶋龍一オフィシャルサイトで読める。

佐藤  調別の施設はもともと米軍のものを引き継いだので、アメリカのオフィサーも同居していましたからね。

手嶋  その情報はただちにワシントンに上げられ、レーガン大統領の決断のもと、ソ連を追い詰める材料として使うことが確認された。現にその後、国連でこの内容を明らかにして、ソ連を追い詰めました。しかしこの情報は日本の財産なんです。それだけに、アメリカから「この惰報を公にする」と内報を受けたとき、官房長官だった後藤田さんは激怒した。日本は主権国家であり、情報の面でも主権国家であるべきだ。それなのに日本が得た情報を、さも自前の情報のようにして利用するとは何事か、というわけですね。 そこで後藤田さんは、リカバリーショットを打つために、アメリカが発表する30分前に自らこの情報を発表したのです。しかしこれは、「インテリジェンスを使って縦横な対ソ外交を繰り広げた」などという謳い文句とは程遠い実態ですよね。かろうじてメンツを守っただけに過ぎない。ところが、この話が後藤田さんが独自の情報をつかんでいたという神話のようにメディアでは取り上げられている。事件を取材しようとする者が登場したときに、日本が主体的な情報活動を行ったように見せかけるため、あらゆる関係者と口裏あわせをした。結局、取材する側はこの後藤田一流のディスインフォメーションに完全にやられているんです。それは後藤田さんの力量が勝っていたと言うべきなのかもしれませんが。

[手嶋龍一オフィシャルサイト 書評より引用]

新書では、佐藤発言を補足する形で手嶋が調別の話をしている違いがある。

事実は判らないけれど、見ていたら可笑しくなってきたので書いてみた。オチはない。